カテゴリ:演劇( 2 )

井筒

「井筒は、執着の苦しさを訴えることもしない、救済を求めることもしないという点できわだった存在。自らも死してなお、男の墓を訪れることをやめないという待つことの静かな哀しみに、すでに救済は遂げられているようです」
「能・到来するものの劇」 放送大学・竹森桂史氏の講義より



『井筒』 (いづつ) は、能を代表する曲の一つである。世阿弥作と考えられ[1]、世阿弥自身が申楽談儀でこの曲を「上花也」(最上級の作品である)と自賛するほどの自信作であった。若い女性をシテとした鬘能で、序ノ舞を舞う大小ものである。
a.wikipedia.org/wiki/井筒_(能) より

「彼女の足は、自然に思い出の井筒へと向かう。そして業平の直衣を身に着けたその姿で、子供の頃業平としたように、自分の姿を水面にうつす。そこに映るのは、女の姿とは思えない、男そのもの、業平の面影だった。舞台は一瞬静寂につつまれる。「なんて懐かしい…」そう呟いて、彼女は泣きくずれる。 そして萎む花が匂いだけを残すかのように彼女は消え、夜明けの鐘とともに僧は目覚めるのだった。」
a.wikipedia.org/wiki/井筒_(能) より
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by oyukibo | 2012-01-26 18:49 | 演劇

能・到来するものの劇


放送大学、竹森桂史氏の「能・到来するものの劇」の講義が圧巻~。

能とは
有史以来の呪術的社会における共同体の祭祀と宗教儀礼を起源の場所として発生したと考えられている、演劇の失われた古層ともいうべきひとつの特質が、生きたまま保存されている特異な例。

能が起源の場所で受け継ぐこととなった演劇・芸能の古い想像力の形とはどのようなものか?人間を超える何者かが、すなわち神や死者、霊魂が、私たち観客へと到来して、自然から与えられた生命の摂理や人間の運命を語ったのち、ふたたび去っていく。演劇とは、そのような場所であり装置である。

到来するのもの劇
彼らは、すでに実現されてしまった運命のただなかで、苦悩のなかから、他のなに者にも変身できずに、他のどの場所へも逃れることができないからこそ、ワキと観客の待つ舞台へと立ち現れるのです。真摯な人間の劇としての能がたどり着いた究極の論理がこのようなものであることを、理解する必要があります。

能面
特定の誰の顔でもない、誰の顔であってもよい、いわば引き算によって高められた顔。だからこそ、それは、私たちの顔でもある。私たちは、自分とはこの自分だと思って自分を生きていますが、そのこともそれほど確かなものではありません。私たちの顔もまた誰の顔であってもよい人間の顔なのです。此の世ならぬ世界から到来した絶対の他者の顔が、同じ私たちの顔であるという驚くべき展開が、そのとき無表情にあらわした能面の上で実現するのです。

能面がもたらす真の変身とは、私たちの変身であり、私たちへの変身なのです。
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by oyukibo | 2012-01-26 18:10 | 演劇